みっち の おもひで

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観劇・映画・小説などなど。折りに触れて思い出せるように…

3.11を振り返る②その後の3年間と今

さて、前回の記事ではやっとこさ実家まで帰ることができたよって話まで書きました。ここではその後どうだったのか。いま、何を感じているのかなんてことを書いてみようかと。これまた当時の話はだいぶ前のことになるので、記憶は大変に怪しいので悪しからず。また、本記事は私が撮った震災関連の写真を主に載せています。あくまで当時のものです2013年~2014年のものがほとんどです。「今」ではありません。

前の①はコチラ↓↓ 

micchi-blog.hatenablog.com

  

福島での生活

2011年3月は先輩の卒業式がなくなり、4月の授業開始も通常よりも遅い開始となりました。ここまでちゃんと書いていなかったのですが、私は福島の大学に通っていました。大学院までで6年間。震災前の3年と震災後の3年を福島で過ごしたことになります。同じ学年の友人のほとんどは翌年に就職でした。ホテルに電話したら、住んでいるところを聞かれ咄嗟に地元を伝えた友人もいます。伝えたあとに福島じゃないのかと念を押しての確認があったそうです。東京では大きなデモをやっているというのも伝え聞いていました。どうやら福島でもやっていたらしいです。シュプレヒコールって言うんでしたっけ、あの声揃えるやつ。その程度です。東電だかから原発事故の賠償金だったでしょうか、いくらかもらったと思います。窓のあるところでは線量が高くなるからとペットボトルに水をためて置いておくと数値が下がるとか、まぁ数値についてはやめときます。

福島はフクシマになりました。駅前や公園、幼稚園などには線量計が設置され、

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天気予報の後には今日の放射線量が何シーベルトなのかを教えてくれる生活に

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だからといって何か具体的に生活スタイルが変わることはありません。それまで通りに大学に通い講義を受け、ときには友人と遊び、映画を見て、食べ物もそれまでと変わらず。ただ、心のどこかで他の地域の人たちよりも被曝しているのだというえもいわれぬ不安はなくなるわけではないし、だからといって急に線量が減ることもありません。どんなに調べて頭では大丈夫だと思っていても、疫学的観点で問題ないと証明されても、この気持ち悪さだけは完全になくなることはありませんでしたね。

仙台にも行きました:2014年4月

職場の研修では仙台に行きました。わたしとしてはこの間までふらっと来ていた場所への研修だったのであまり新鮮味はなかったですが笑。それでも研修最終日には閖上地区に行き、農家の方のおてつだいと、震災の爪痕を見ることができました。その一部を載せておきます。津波の被害があると土は塩を含み、以前の土地とは異なる状態になるため農業はかなり難しいとのことでした。それでもそこを離れない人もいるし、離れて別の場所で農家をやる人も、まったく異なる仕事を始める人もいます。

長針も短針も折れてなくなっているけれど、この時間帯に来たのかな。。。

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原発事故の被害に直接あった場所を見てみたい:2013年12月

卒業が近くなったときに、福島にいるから体験できることとして、そのときの原発周辺がどうなっているのかを見てこようと思いました。きっと就職したら足は遠のくだろうし、時間を作るのも大変になるなら、いま見てくることは意味があるかもしれないと感じました。それにあたり、大学からは線量計を借りて行きました。自分の住んでいるところの数値との違いを感じることができたので、とてもよかったと思います。その数値の違いは花粉のように体感できるものではないので、どれだけ違うのかを知るには線量計が必須でした。車で現地に入り、最初はJヴィレッジへ。Jヴィレッジは当時、原発事故対応拠点になっていたため、作業員の方ともすれ違いました。挨拶を交わしただけですが、どんな気持ちだったのだろうかと。施設内で簡単なごはんを食べられるようになっていましたので、昼食を取りました。次は、富岡町役場 連絡所へ。こちらでは使い捨ての防護装備一式を配布していました。私も受け取り、着た状態でそれ以降は移動しています。簡易の防護服・手袋・マスク・靴カバーがセットになっていました。私はあくまで経験としてここに立ち寄りました。防護装備が必要だと判断するほどの数値ではないと思っていましたので。そして、富岡駅へ。ここのあたりは特にきつい。駅であることはわかりますが、津波による被害の大きさを目の当たりにした感じでした。その後は特別目的地を定めることなく車を走らせました。富岡高校や観陽亭のまわりは行きましたね。その後は防護装備一式を返却するために、福島第二原子力発電所へ。防護装備は持ち帰ることはNGでした。第二原発では防護装備の処理や、車両のスクリーニング(風圧で表面の細かい付着物を除去)してもらうようになっていました。あまり帰りのことは覚えてないです。

Jヴィレッジ・富岡の写真

Jヴィレッジ。今は復旧され、ナショナルトレーニングセンターとして再開しています。

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富岡町役場 連絡所。簡易の防護装備をいただきました。

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富岡駅。現在は駅舎を少しずらして新しくなっています。

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動物たちにとって、この状況はどんなものなのだろう。

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富岡高校

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観陽亭。崖の上にある旅館f:id:micchi-blog:20210309220041j:plain

ちょうどこの旅館の記事がありました。
business.nikkei.com


放射線量について:2013年12月

当時まわった場所の線量も写真に残してはいますが、ここには載せないことにします。あまりにも時間が経ってしまったので、特別数字に意味はないと思うためです。ただ、そのとき住んでいた福島の家の中と外だけ載せておきます。その数字に対してどうとかはないです。ただ、事故後ここに3年は住んでいました。それだけです。
①家の中:0.17μSv/h ※窓際です

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①家の外:0.472μSv/h

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参考にしたもの

なお、この福島の道中こちらの本を参考にさせてもらいました。

ゲンロンショップ / 福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2

このような旅のことをダークツーリズムと呼びます。広島に行くとしたら平和記念資料館は誰でも候補に入れるのではないかと思いますが、そのように人類の悲しみの記憶に触れる旅をダークツーリズムと言います。まぁ名前はなんでもいいです。なにも勉強のためじゃなくていい、ただ興味本位でもいい、物見遊山でいい、きっかけはなんでもいいんです。ただ、そこに行く道中で少しずつ景色が変わることや、現地で思いがけず苦しい部分に出くわしてしまうこと、そんな時間を通して旅の前と後で何かが変わればそれで十分だと、わたしは思っています。

遠くに見える施設は福島第二原子力発電所。そこでスクリーニングを受けて帰宅しました。

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人が住んでいるところ、住むことはできないが工事のために一時的に出入りできるところ、入ることが許されていないところ。それをこの目で見てきたことは、かけがえのない時間だったのだと確信しています。

封鎖された道

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いま離れて感じていること。

現在は東京に住んでいます。それまでに関西に住んでいたこともありました。折に触れてこのときの話をするのですが、やはり場所によって受け取る方の空気というのか、当事者感というのは異なりました。東京であればそれなりの揺れ、高層ビルにいればかなり大きかったでしょうし、計画停電もありました。その意味で、自分たちはどうだったかということを思い出しながら聞いてくれる方も多いように感じます。関西では阪神淡路大震災の記憶の有無、もしくはその被害が大きかった地域の教育などと比較される方もいれば、ほとんど他人事のような方も。このあたりの温度感は経験だけじゃなくて、私との関係性も大きいかもしれませんね。近しい人の方が真剣になるとか。ほとんど揺れを感じていなければ、わたしもそこまで感心を持てる自信はありませんし、実際に海外の災害はよくわからない。大事なのはそれぞれ自分にあったバランスで向き合うことかなと思います。無理にこの時期だからって情報に触れなければいけないなんてことないし。ただ、そういうタイミングがあったら、あったらでいいので、そのときは向き合ってみてもらえたら…なんて。

わたしは、福島から出て行った人です。震災後3年を住んだとはいえ、3年で移った人なんだということ。それがずっと気がかりで、もやもやしているのはあります。だから、ときどき思い出すことや、遊びに行くこと、折に触れて東北の話(震災ってことではなく)をすること、いまがどうなのかを体験していない事実を忘れないこと。それくらいはしていきたいと思います。 そして、忘れてもいいってこと。

 

おわりに

最後にひとつ目にも書いていたことと同じものを。自戒を含め覚えておきたいことを。

どうしたって3.11については大なり小なり誰もが思うことがあるんじゃないかと思うんです。それは、直接的なものでなくても間接的にも、もしくはまったく無関係であることでさえも。だから、思い出すだけで疲れちゃうことだってあるだろうし、少し情報に触れるだけで苦しくなる人だっていると思う。「忘れない」「風化させない」って大上段に掲げたタイトルがこの時期は増えます。でも、別に全員がそうする必要はないし、いま元気でいることの方がよっぽど大事です。自分にとってよい塩梅で関わっていけるようにしていきましょう。真面目に向き合ってしまう人は不真面目になりましょう。そして、いまを生きましょう。

ひとつ、この時期に大事にしている言葉を。

「忘れろ、忘れろ、忘れろ。悲しみは片っ端から忘れていかないと人は生きちゃいけない。全部忘れれば希望が残る。」

音楽座ミュージカル「メトロに乗って」より

 

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