みっち の おもひで

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観劇・映画・小説などなど。折りに触れて思い出せるように…

3.11を振り返る①当日~実家へ帰るまで

10年が経って、ずいぶん遠い場所にきてしまったな、という感覚でいます。当時のこと、いま思うこと、記録しているわけではないですが記憶をもとに書いておこうと思います。

書いてはみるのですが、別に知っておかなければいけない話でもないし、何か価値のあることを述べるつもりもないのです。もしかしたら思い出したり、いろいろ想像して気分悪くする方もいるかもしれません(そんなに文章うまくないけども)。覚えておいてほしいなって思ったことは最後に置いておくので、そこだけでもどうぞ。ちなみに正直記憶が薄れていることも多いので、そこは悪しからず。

当日

大学3年の終わりでした。1,2年生が参加するテニスの大会があり、3年の私は後輩の応援のために泊まりがけで仙台にいました。前々日にも震度5弱を記録している地震が起きていることをニュースで見つつ、大会会場へ。いくつか試合を見つつ応援もしつつ、その日の半分くらいの時間が過ぎた14時46分。コートの脇を歩いているときでした。本震が起きました。経験のない揺れ、見えている世界が歪んで斜めになったかのように気持ちが悪かった。立っていることも難しいので、諦めて座り込む。近くの体育館の窓ガラスは割れ、まわりのアスファルトもひびが入り、騒然としました。即ネットワークは繋がらなくなり、親へ送ったメールも届いているのかわからないまま。いったん試合は中止、翌日また集まる話に(当然集まることなどできず、試合はなくなりました。)。しばらくワンセグなどを使いながら情報探していましたが、いつまでもそうしていても何も変わらないので、まずは駅へ向かうことに。太平洋側なこともあり仙台は雪も多くないのはずなのですが、3月なのに季節外れに雪がちらついたり、それだけでそのときの雰囲気が不自然で不気味な場所にいる感覚でした。当然電車は動かないし、当時泊まっていた宿まで移動することもできませんでした。どうすることもできず、近くの役所へ。最初は人も少なかったのですが、夜になると続々と増え続け、結果として避難所の形になりました。当然食料の蓄えを持ち歩いているはずもなく、ただそこに座っているしかできなかったのですが、部員が近くのドラッグストアでお菓子を買ってきてくれました。もちろん電気・ガス・水道は通ってない状態でしたので、お店の方もメモに書いての精算だったようです。ちょうどこの役所に着く前に、近くのお店では行列ができ、お客さんが店を開けろと詰めかけていたのを見かけました。そのときのそのお店は、「私も被災者なんだ!」と開けていませんでした。至極最もです。あんな状態なのに売り買いさせてもらえるというのは本当にありがたかったし、できなくて当たり前だと思います。お金はあとで集計して割り勘できるようにしてました。夜になるとさすがに3月の東北なので寒い。ヒーターを出してきてくれたので多少はマシでしたが、それでも寒い。椅子で寝ていたときに、後輩が毛布を借りてきてくれたのは嬉しかった。ある一角では非常用電源かなにかでテレビを付けていましたが、見る気になれず近づきませんでした。何故か夜のタイミングでdocomoだけネットが繋がる時間があったので、ケータイを借りてPCメールから状況を親に連絡しました。最初のメール含め届いていたようなのですが、こちらでは返信が受け取れていないので把握してもらえているか不明な状況は続いていました。

2日目~

明け方になって、自衛隊の方が来たらしく、わかめご飯の配給がありました。このあたりから本格的に避難所として機能し始めたような印象です。それまでは居場所がなくてただ人が集まってきた場所というような印象でした。この日、前日にドラッグストアで買い物ができたことから数人で近くのお店に行ってみるということに。行ってみるとコンビニの前にもけっこうな人が並んでいました。開けてもらえるかもわからない状態でしたが、それでも必要なものがある人が集まってきていました。しばらくすると、お店の方がいらして、開けてくれました。入り口でメモ帳を渡されて、買う商品は金額をメモしながら店内を周り、レジでは手で計算、購入にカードが使えるわけなく現金で。そうやって食料を集めていきましたね。ただ、このときはちゃんとメンバーに周知もせずに出歩いてしまったため、心配かけてしまいました。普段気にもしないことでも、いまが緊急事態であるということが痛烈に身にしみました。本当に申し訳なかった。避難所らしくなってきたこととしては、配給の時間が知らされるようになったり、そこに避難している人がどこの誰なのかを登録する用紙が配られたりしたことです。まだまだどれだけの時間をそこで過ごすかわからなかったので、自分も用紙を記載した覚えがあります。出るときにどうするかわからずそのまま放置してしまったのですが、あの後それをどうしたのかは不明のままです。確かもう1泊くらいはその役所で過ごしたんじゃないかと思います。いつ電気通るんだと怒鳴るおっちゃんが現れたり、手持ちの現金なくなってきたりもありましたが、最終的には中心部までのバスが通ったという情報が入ってそこから宿へ移動することができました。あとはタンクに残っていた水もすぐ少なくなり、トイレも水を流さないような張り紙がされたりと徐々に衛生面でも気になる点は出てきていましたので、よい選択だったのではないかと思います。役所にいれば配給があるので食料はなんとかなるという意見もありましたが、かなり疲弊してきていたのも事実でした。離れるときには、やけに統率とれてるなって思ってたと役所の方からも感心されたのが印象的でしたね。必死なだけでしたが、それまでの関係を部として築いていた人が近くにいるのは心強いものでした。

宿にて

バスで移動しているときも、いたるところで道路は歪み、景色も色を無くしてしまったかのようでした。市街地に着くと、電気が止まっているために食料が悪くなる前にと牛タンを配っていました。みな受け取っていたので私も受け取りましたが、しばらくはそれを食べる気持ちにはなりませんでした。宿に着くとインフラはその時点でガス以外は動いていました。通りを挟んだ向かいでは止まっているなど、かなりギリギリな形ではありましたが。また、たまたまプロパンガスの宿だったこともあり、お風呂に入ることができました。また、避難所では眠るのも苦しい状況でしたが、布団で眠ることができたのは本当に助かりました。ただ、熟睡ってことはなかったかもしれません。頻発する余震に気は張り、何かあったときにはすぐに動けるようにと落ち着かない日々でした。宿にいても食料が出てくるわけではないのですから、調達は必要になります。ここでもそこここでお店を開けてくださる方々がいらっしゃるということが本当にありがたかった。ただそのためには、もちろん外を歩くことになります。そんな中誰もが知っているであろう、福島第一原子力発電所の1号機と3号機は水素爆発を起こしていたわけです。いまいる場所はいったいどのくらい危ないのかなんてわからない。わからないから今思えば異様な危機感とともにマスクは2重にしてフードを目深に被り、出かけていました。100kmという距離が安全なのかどうか、それさえ自分で判断できるほど情報はなかったし、目に見えない感じないものへの言いようのない恐怖の中で生きていました。そして、忘れられてしまうことも多いと思うのですが、3/12には長野と新潟の境で震度6弱、3/15には静岡県震度6強など被災3県と言われる場所だけじゃなくいろんな場所で、東日本全体で大きな揺れがあったことは覚えておきたいと思います。

実家へ

いつまでも宿に泊まらせてもらうわけにもいきません。ただ、なかなか移動手段がなく困っていました。近隣が地元の人たちはなんとかなりそうとわかりつつも、関東へ向かおうとする人たちがうまくいきませんでした。どうやら、山形→新潟→大宮というラインは動いていそうだということまでわかり、あとは山形までどう移動するかということでした。幸いもともと1台だけ車はあり、さらにその人の実家から1台迎えにきてくれるということになりました。動けるならすぐにと夜中に移動することに。翌朝には他のみんなもそれぞれの場所に移動しました。泊めてくださったことがどれだけ安心に繋がったことか。ちゃんとご挨拶することもできず出てしまいましたが、次の大会のときにみんなでお礼をすしました。車での移動中、山形に入ったとたんに雰囲気が少し変わったのを覚えています。コンビニが通常とまではいいませんが営業していて、ものが買えるということが一番大きかったです。もちろん他の地域同様に食料品は少なかったのですが、電気の付いたコンビニがあるだけでほっとしました。被害の大きいところではコンビニやスーパーの中はお酒などが散乱した臭いなどもあり、とても通常の買い物という雰囲気ではなかったからです。翌日明るくなって少し周りを見てみると近隣の体育館などには多くの福島ナンバーの車があり、かなりの人が同じように山形に入ったことがわかりました。移動してきたメンバーのうちすぐに動けるか確実ではなかった人は少し会社のある建物の一室に置いて頂けることに。他のメンバーはここで別れて身内のもとに。ここまで来るともう身の安全という意味ではほとんど気にする必要がないほどに安心にできていました。芋煮をつくってもらったり、駅弁をご馳走になったり、本当にお世話になりました。思い出すと泣けてきます。この時期のニュースでは原発の炉心を少しでも冷やすためにホース車で注水したりヘリコプターから水を落としたり、ほとんどが原発関連でした。あとはイラク戦争のこと。日々のニュースやたくさんのネットの情報から今の福島やその周辺がどれだけの放射線量なのか、その数値は許容できるレベルなのかを考える時間が多かったです。最終的には大きな問題はないだろうという判断をしました。どんな情報から判断したかなどは書きませんが、このときの経験はとても大きなものだったのではないかと今にして思うのです。情報を取捨選択し、信用のできる数字から自分で判断する力はこのときどうしても必要なものでした。私も他のメンバーを見送ったあとは、車で新潟への電車が動いている駅まで向かい、新潟まで電車で、そこからは新幹線で地元のある関東まで戻ることができました。関東では計画停電も動き始めていたので電車が予定通り動くか不安はありましたが無事に帰ることができてよかったです。ちなみに当時の新聞5日分を取っておいています。読めてはいません。

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おわりに 

さてさて。長くなるのでこの後のことは別で。

最後に両方に書いておこうと思うことだけ。自戒を含め覚えておきたいことを。

どうしたって3.11については大なり小なり誰もが思うことがあるんじゃないかと思うんです。それは、直接的なものでなくても間接的にも、もしくはまったく無関係であることでさえも。だから、思い出すだけで疲れちゃうことだってあるだろうし、少し情報に触れるだけで苦しくなる人だっていると思う。「忘れない」「風化させない」って大上段に掲げたタイトルがこの時期は増えます。でも、別に全員がそうする必要はないし、いま元気でいることの方がよっぽど大事です。自分にとってよい塩梅で関わっていけるようにしていきましょう。真面目に向き合ってしまう人は不真面目になりましょう。そして、いまを生きましょう。

ひとつ、この時期に大事にしている言葉を。

「忘れろ、忘れろ、忘れろ。悲しみは片っ端から忘れていかないと人は生きちゃいけない。全部忘れれば希望が残る。」

音楽座ミュージカル「メトロに乗って」より


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